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ミラノ日本総領事館

必ず1週間に一度は路上駐車が出来ない日

サント·ステファノ·ディ·セッサーニオ「おとぎの国」ラクイラ市から車で三0分のところにサント·ステファノ·ディ·セッサーニオという長い名前の町がある。高さ二九00メートルのグラン·サッソ山の麓にある町で、標高はなんと一二五0メートルである。住民の数はわずか1110名足らずだが、いかに小さな町であろうとイタリアのなかで最も美しい中世の「町」の一つに近年選ばれたと聞けば訪れたくなるだろう。ら町は一五世紀の中世がそのまま残っているのだ歴史が息づく町並み戦前戦後にかけて、このあたりの村人たちは仕事を求めて大都市やイタリア北部、海外へと移住し、過疎化が進んでいたあるいはしかし、打ち捨てられたかつての美しい町は、ここ110年で少しずつだが人口が戻りつつあった。輸入食材に頼らず、その土地に古くから伝わる食材や食文化を見直す「スローフド」や、農家に泊まって農業を一緒に体験する「アグリツーリズム」がはやり始め、町の魅力を再確認する町おこしが始まったからである。街の至る所に息を飲むような作品が並ぶ年を通して

イタリア語だミラノ通り

さらにその後のオットー1世が帝冠をうけたことにより誕生した神聖夏になると休暇で帰省する人びとや、山岳地帯に息づく中世の町並みに魅せられる観光客が増えてきた歴史が積層するこうした町の魅力に人びとは気づき始めたのだ。当然ながら、お洒落なレストランや特産物を売る店も増えてきた。ところが、二00九年四月の震災で再び観光客の姿が減ってしまった。私がこのチャーミングな「サント·ステファノ·ディ·セッサーニさの町を歩いたとき、人影はほとんどなかった。だが、屋根や壁面を眺めたとき、その素材が昔ながらの石造りであり、どの住居のドアも取っ手が豪華な金色の真ちゅうであったのには驚いた。

いかにも観光客向けのレストランに入ってしまうことです

バロック期の絵画や古代
倒壊した大聖堂内を歩きながら、私はそのことが妙に気になってしかたがなかった。チエレスティーノ五世の悲劇実は裏話があることがその後にわかった。イタリアでは当時、二年半もの間、法王の座が空白になっていた。枢機卿たちは相反する利害から、誰を法王にするかという点で分裂を起こしていたからだった。この状態を危惧し、枢機卿らに「法王を早く選ばなければ、法王選挙会議に神罰がくだる」と警告文をしたためたのが、ピエトロだったのである。

ペルージャに残ったペルジーノは

ローマの頃から困難を極めていた
その警告文をほかの枢機卿たちの前で読み上げたのが、カエターノ枢機卿という人物であった。カエターノは突然こうひらめいてしまう。「枢機卿のみなさま、警告文を出した本人に法王になってもらうというのはどうでしょうかするとカエターノの妙案にほかの枢機卿全員がとびつき、立ってしまった。この修道士ピエトロに白羽の矢がだが、ピエトロは当座を穴埋めする「ピンチヒッター」にすぎなかった。八三歳という高齢にもなれば、静かに祈りに余生を捧げたいのが本音であっただろう。

ローマから車で一時間もあれば来られるのだが昔は自然の要塞がこの町を守り

フィレンツェを離れ
そこには、単に愛する弟の恋人や、詩人に霊感を与えてくれるミューズに対する以上のものがありそうだ。そのロレンツォの依頼だろうか、シモネッタもジュリアーノもすでにいない一四八0年頃、ピエロ·ディ·コジモがシモネッタをクレオパトラに模して描いた肖像画が残っている。当然ながら一種の”想像図なのだが、人々の記憶がまだ強く残っている時期のものなので、意見を聞きながら似せようと頑張ったものに違いない。ということは、美意識が異なる時代に生きる私たちにはあまりピンと来ないかもしれないが、この姿こそルネサンス女性の美の理想像なのである。それにしても、シモネッタにも、そしてロレンツォの愛人だったルクレツィア·ドナーティにも正式な夫がいた。

ミラノ風リゾットはこのサフランを使った黄色い色の米料理

しかし11人が為政者である兄弟の愛人だということは、当時の誰もが知っていた。歴史上ではいずれの夫も沈黙しているが私としては、叶うことなら彼らの心情をこそ覗いてみたい。Bon-arzoボマルツォ|怪物たちの宴たまげどこかに魂消るほどの驚異はないかと.はてしなく世界をさまよう者たちよ、ここに来たれ。ここでは恐ろしい顔が象やライオンや熊、海鬼やドラゴンが汝を迎えん。(ボマルツォの怪物庭園、エトルリア風ベンチに彫られた銘文、筆者訳)マから高速道路A1号をフィレンツェへ向かって1時間も飛ばしていると、ヴィテルボ方面への出口が近づいてくる。