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フィレンツェからメディチ家を追放

新教皇グレゴリウス七世として選出される

アトリの鐘」が近所の神社の鐘と重なって、子供の頃、一生懸命鳴らした思い出がある。あの時、何に困って、何に悩んでいたのだろうか。私の心を魅了した『アトリの鐘』の童話の町を後にして次はアドリア海に向かっていった。ピネト「アドリア海のリゾート」日本人がイメージするイタリアの海といえば、まず地中海だろう。だが、アドリア海沿岸1帯も、毎年夏にはイタリア全土のみならず、ドイツをはじめとしたヨーロッパ各地からたくさんの客が訪れるリゾート地だ。

ジャズの愛好家にはたまらない場所になっています

アトリから一〇キロメートル離れた海岸にある町ビネトもアドリア海沿いの若い町であるアブルッツォのテラモ県とペスカーラ県、そしてキエティ県はアドリア海に面した地域を含んでいて、その全長は約一二四キロメートルある。その海岸沿いに二0世紀に造られた小さな町がピネトだ。その町を知ったのは日本を出発する直前のことだった。銀行家が執筆した町の歴史東京にあるイタリア文化会館元館長ウンベルト·ドナーティ氏にアブルッツォの旅の計画を話したところ、アブルッツォ州に住む知人を紹介してくれた。その知人がさらにピネトの副市長に連絡してくれたのである。

 

ローマ司教レオ1世が

海の色はひたすら透明で水色であった。愛した女性と結婚し、そして離婚したダヌンツィオは後にスキャンダラスな生涯を送る。この海岸で何を感じ、何を思い、何を伝えたかったのか。今回は彼の生家の佇まいしか眺めることができなかったのが、残念と言えば残念であったけれども、考えようによっては、「また来てくれ」ということに違いない。この博物館のなかにある彼のデスマスク」や資料をいずれこの目で見ることを楽しみにして、この場を去った。
ゲルマン人に奪われたのでした

ナポリ王国も

洗練された町並みでショッピングを再び、ペスカーラの中心街に戻ってメインストリートを歩いた。この町は実に垢抜けていて中心街の通りには、ローマ通り、ミラノ通り、バーリ通り、ウンブリア通り、ジェノヴァ通りといった州や都市の名前がついていた。その中でも一番お洒落なのがやはり名実共にミラノ通りであった。あるショーウインドーには何枚もの楽譜を背景にして靴やカバンがステッキが並べられていた。イタリアは音楽の都だけある。

その教育のもと育った者がのちに

無料の公共ビーチもあるが、イタリアのビーチリゾートを体験するならば、それほど高くない「パラソルとビーチベッド付きの有料ビーチで過ごすことをおすすめしたい、とのことだ。松林が名前の由来この町の歴史を尋ねると、と教えてくれた。ひとりの青年フィラニの手によって一九二○年代にできあがった当時、海岸線にはフィラ11家の夏の別荘が一軒しかなかったという。青年フィラニがローマ大学で法律を学んでいた時、第一次世界大戦が勃発し彼は出征する。生きて帰るも、戦地でマラリアにかかり、その後の人生をこのピネトの町造りに捧げたのだった。

ローマ司教の首位権教皇権を主張する

この町の名前の由来であるが、世界に名を轟かせた詩人ダヌンツィオの「ラポッジャネルピネト(雨の松林)」にちなんでいるという。イタリア語で「松」を「ビーネ」という。文字通り町の名は「松」からきている。ダヌンツィオの描いた松林は、ローマの「ピンチョの丘」にあるあの丈の高いローマの典型的な傘形の松であった。フィラニと同時代を生きたダヌンツィオも同じアブルッツォ出身でピネトからさらに南下したところにある海岸沿いの漁港町ペスカーラ生まれである。