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いつまた分離してもおかしくないと我々外国人には思える

イタリア語圏の中心地であるルガノは

シラクーザはそれ以後、歴史の表舞台から姿を消す。しかし街には大劇場などの、大ギリシャ時代の栄華をしのばせる建造物が多く残る。ギリシャ時代の地下水道を拡張して掘られたカタコンベもみどころのひとつである。ここでは、カタコンベに残された初期キリスト教時代の貴重な碑文を紹介しておこう。エウスキアは、誠実で気高い、二五年間ほどの罪なき人生をおくり、聖ルチアの日に亡くなった(中略)。

イタリアではないのよと言った言葉の意味を

信心深く、非のうちどころのないキリスト教信者であり、その優美さと人柄によって夫に愛された。(サン·ジョヴァンニのカタコンベで一八九四年に発見された碑文。原文はギリシャ語。筆者訳はズガルラータによるイタリア語訳から)Taorminaタオルミーナ雄大なる青リュック·ベッソン監督が世界的にその名を知られるきっかけとなった映画『グラン·ブルー(グレート·ブルー)』(一九八八年)は、実在する二人のフリーダイバーを描いた物語だ。主人公として描かれたのがフランス人のジャック·マイヨールで、一方、彼の友人かつ好敵手として描かれていたのが、エンツォ·マイヨールカというイタリア人ダイバーである。

 

イタリアより低いので

とにかく、イエズス会に追いつけ追い越せの勢いだったからだ。だが、キリスト教という同じ神をもちながらも、宗派によって規則が違っていたことが後で障害になった。それが日本のキリスト教迫害につながった一つだという見方もある。たとえば、ヴァリニャーノは神社仏閣を壊すことをまったく意図していなかったにもかかわらず、彼の息がかからないところではキリスト教徒が闇雲に仏教徒の建物を壊す行為があった。これは当然周囲に反感を与えてしまう。
人ごとながら心配していたら

スペインのセビリアやフランス南部に残る水道橋

一五九○年、五一歳になったヴァリニャーノが二度目に来日を果たすと、事態は悪化していた。豊臣秀吉は天下を統一し、キリスト教改宗に反対し、キリスト教徒を迫害し始めたからであるその理由は、キリスト教徒の娘たちが賢くなり、秀吉と夜を過ごす慣例に背いたとか、秀吉が訪問したポルトガル船でワインを飲み過ぎてしまったとか、キリスト教を毛嫌いした相談役の徳運(施薬院全宗)の言葉を秀吉が真に受けたとか、諸説はいろいろある。せでは、織田信長が天下を取ったときに、ヴァリニャーノが企画し、ヨーロッパに送り込んだ天正少年使節団」の四人の少年たちは、その後どうなったのだろうか一五八五年にローマで法王グレゴリウス一三世に謁見し、ローマ市民権を与えられた。さらに、四人はグレゴリウス一三世の後を継いだシクストゥス五世の戴冠式にも出席するのだヴァリニャーノが送った使節団は、どの国でも心から歓迎され、国賓級のもてなしを受けたと伝えられているヴァリニャーノは子供のように大事に育てた四人の日本人少年たちが、大志を抱いて日本に帰国し、そして活躍してくれることを願っていただろう。なぜならば、かつて彼は日本人の子供たちにつぃてこう綴ったからである「日本の子供たちの理解力はヨーロッパの子供たちより優れています。

パラティーノの丘の麓にたどり着くのでした

町の歴史は紀元前四世紀頃まで遡れるほど古い。そのヘルクラネウムの遺跡からこのカペストラーノと同じラテン語で書かれた「回文」が見つかったということは、この二五文字のフレーズはイエスが生まれる以前に存在していた可能性がある。やはり、私の疑問は的中した。イエスが生まれる前に書かれた『旧約聖書』を調べると、イザヤ書四。六節に次のような一節が含まれていたのだ。

多くの選択肢が用意されている複線教育であるという点だろう

「イスラエルの王、これをあがなう者万軍の主はこう仰せられる。私は最初であり、私は最後である。私のほかに神はない」『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」はイエスが生まれた後に書かれたものだが、それより古い『旧約聖書』にも、すでに私は最初で最後である。私のほかに神はいない」という文言があったのだ。『旧約聖書』の中における「神」とは「ヤハヴェ1エホバ」である。