Skip to content

ヨーロッパに限らず、外国人に接する際には、相手がどこの国の人であれ、十分気を付けるべき点であろう

ローマの日記、一六五○年八月七日の記述

イタリアではちょっと食事をすれば十万や二十万リラは当たり前、高級品を買えば百万リラだって珍しくない但し、めに栽培したものではないから、元々が日本のようにただ炊いて食べるた自分にあったブランドの米をみつけるまで暫くは苦労せねばならない。の米で飽き足りなくなると、色々な情報を集め、米どころにある農家や精米所の直売店まで出その内にス向いてまとめ買いすることも出来るが、ここまで来るとさすがに値段は安いし、味もまずまず。ただ北イタリアの典型的料理リゾットの場合は、他のパスタと同様にアルデンテ、つまり歯ごたえがあるように多少芯を残して料理をするので、日本の食べ方とは大分コンセプトが違う。経験からすると、どうもイタリアでは高級とされる(つまりリゾットには最適な)米は日本風に炊くと余りうまくなく、むしろ安物の米の方がおいしく食べられるようである(実際に我々が一番うまいと思って産地で買う米には最も安い値段が付けられている)。産地の精米屋さんによれば、リゾットには新米よりも暫く寝かせておいた米の方がうまいという話だから、新米を有り難がって遠路はるばる買いに来る日本人は不思議な存在かもしれない。

イタリアのお土産を日本から購入しよう

長粒米には長粒米の食べ方があるように、イタリアのジャポニカ種にはそれなりの工夫が必要で、水加減を調整したり、秋になると豊富に出回る茸を使った炊き込みご飯に挑戦したりと、苦労しながらも様々なバリエーションを楽しめるのも、食べ物のおいしいイタリアならではの生活である。ノで食べたロブスター入りリングイネイタリアで食べ物とワインの話を始めると、この話題だけで優に一冊の本が出来てしまう。長年ミラノに駐在されている林茂さんの書かれた「基本イタリア料理」と言う本は、その名前の通りイタリア料理を知るためには最適である。日本に一時帰国した際にこの本を購入し、ミラノに戻ってから自宅で夜読んでいたら偶々生ハムとサラミの項目にぶつかった。淡々と材料と各地での作り方が書いてあるだけなのだが、読んでいる内にうまそうでよだれが出そうになり、翌日会社からの帰りにスるサラミを買い込み、帰宅して早速ビールのつまみに食べてしまった。

  • ラクイラ県から南下するとき、このブドウの苗を売ったことが始まりだったという
  • イタリアの芸術はやはりギリシャの真似事からはじまります
  • イタリアでは十七という数字自体が忌み嫌われるようで、九六年の総選挙で勝利を収め組閣に入ったプロディ首相も、内閣の発足の日が十七日もしかすると火曜日だったかも知れないだったのを嫌い翌日に延ばしたこと

 

 

ラクイラのシンボルマーク、鷲と対面このとき何か強い視線を感じ扉口の上を見上げると、それは精巧なワシの彫刻

ここは、一九世紀に生きたエンリコ·ビライーノ·ディ·マンドラリスカ男爵が集めたコレクションを展示している施設である。彼のコレクションは考古学から科学分野まで多岐にわたる。世界中から集められた貝殻などは、彼の博物学的関心の広さと当時の分類法などを教えてくれるなかでも、アントネッロ·ダ·メッシーナによる《男の肖像(RitrattodiIgnoto)》は重要である。イタリアで初めて油彩技法をものにしたという画家アントネッロの数少ない現存作のひとつであり、小さな画面ながらも、生きているかのような迫力をもって男が視線を投げかける。二0世紀の著名なエッセイストで政治家でもあったレオナルド·シャシャは、この作品について、にでも似ている“点にある。

イタリア人に聞いても様々な答えが返ってきます

私にも、あなたにも、画家自身にもそう、誰にでも」と述べている。「この男の特徴は”誰”既視感“とその思わせぶりな微笑に、しばし魅せられてしまうにきっとあなたも、違いない。この小さな肖像画が放つ不思議なMateraマテーラほら穴に生きた人々ろうと状のそれらはサッシと呼ばれている。(中略)それらの形は、学校で習ったダンテの『神曲』の地獄篇を思い起こさせる。私も、ウネウネとした小道を底の方まで降り始めた。

 

イタリア中部や北部の都市、特に

ミラノで不思議なのは、FM局がびっしりと軒を接して放送していることだ「私をお赦しください。切にお願いいたします」。涙ながらの皇帝を見て、教皇は同情をおぼえた。父よ、慈悲深い父よ。,,うして皇帝の破門は解かれた。

イタリアのコインと同じなども混じってくるから、初めてリラ硬貨を見た外国人が途方に暮れるのも想像がつこうというものしかし,,のことが教皇の命取りとなる。再び諸侯たちの協力を得た皇帝は、今度は別の対立教皇をたてる。教皇は皇帝を再び破門するが、今度教皇の目の前に現れたのは、哀願する皇帝ではなく、進撃してきた大軍だった。マティデは敗走し、ローマも占領され、教皇はサンタンジェロ城に監禁されてしまう。教皇はなんとか逃げおおせるが、逃亡先のサレルノで一〇八五年に憤死する。